2016年9月21日(水)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.48
松本清張「鬼畜」

 

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  この全集の巻立てを作るにあたっては、いろいろあった。編集委員の皆さまのアドバイスをいただきながら、本を読みまくった。土曜日曜も休まず、500日小説を読み続けると人間はどうなるか。
  なにをやっているんだかわからなくなってしまうのである。
  精神の均衡が、崩れてゲシュタルト崩壊を起こすのである。
  松本清張は「霧の旗」という長編が「追跡者の宴」に入っていた。藤原審爾は短編「泥だらけの純情」が「危険な旅路」に入っていた。三島由紀夫は「潮騒」がまるまる「波浪の咆哮」に入ってしまった。川端康成は「伊豆の踊子」もどこかに入っていた。
  大沢在昌編集委員が、言った。
「呆れた。何を考えておるのだ、ヤマダさん。全部、山口百恵主演映画の原作ばかりではないですか」
  え。そうなの。そういえばその通りかもしらん。
  平岡正明氏に「山口百恵は菩薩である」という著作あったがその通りであって、山口百恵は菩薩であり、日本の恋人であり、日本人の母であり、三浦友和の奥方なのであった。
  そういうわけで、「山口百恵の原作本全集」になってしまうところを、大沢委員の誠に鋭い指摘で免れた、というわけなのです。
  でもでも、上に挙げた4作品はいずれも傑作である。関係ないけど映画もよかった。
  それにしても、精神の均衡が崩れると、脳の奥にある何かが表出してくることって、あるんですねえ。

2016年9月20日(火)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.47
大藪春彦「野獣死すべし」

 

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  20年ほど前、西村寿行の文庫を満載したダンボールを自宅で捜索した。腰を痛めつつ目的の箱を発見し、求めていた文庫を発掘し、読んだ。
  若い作家が「書きたい」と言っていたテーマを寿行さんも書いていたらしいことを思いだして、似ているとまずいから確認したのだ。
  ここまでは、よろしい。
  問題は、そのあとだ。その文庫をダンボールに戻しつつ、あ、こんなんもあった、これどんな話だったっけと寿行文庫をかきまわしているうちに、なんとなく再読を始め、気がついたら3日間で8冊も寿行作品を読んでしまったのである。
  当時は、小説雑誌の編集長をやっていたから、暇ではなかった。暇だったら20冊くらいは読みとばしていたかもしれない。
  これは、一体どういうことであるか?
  うーん、と考えた。
「流行作家」と呼ばれた作家は、多作を強いられる。余儀なくして自己模倣というか自分の作品の焼き直しを書いてしまう状況に直面する。
  そうでもしないと、年間に20冊以上もの新刊を出せるはずもない。
  昭和40年代から50年にかけてはそういう猛者が20人以上いて、出版社を潤わせていたのだ。「流行作家」の文章は、文学賞選考委員を感心させはしないが、強烈な中毒性をもって、読者を酔わせる。そして、次々と新作を買わせる。
  この毒は甘い沼である。「文学性」を求める者と甘い沼に沈みたい者は、一人の読者の中で容易に共存するのである。
  45年前、高校生のころ、大藪春彦にハマりまくったころを、懐かしく思いだした。

2016年8月24日(水)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.46
平井和正「エスパーお蘭」

 

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  フリッツ・フォン・エリックというプロレスラーがいた。
  得意技は、鉄の爪アイアン・クロー。巨大な掌で相手の顔面を掴むとたちまち相手は血だらけ。握力は120キロ以上とも言われ、リンゴを記者の前で握りつぶして見せた。
  やっと場外に脱出したジャイアント馬場を、その額を掴んだ右手一本でリング内に引き戻したシーンはもの凄かった。
  高校三年。すでに一浪ときめこんでまったく勉強しない私を含む一群がいた。校庭の片隅でプロレスとSFについてくっ喋るばかり。テーマは「エリックは早漏か?」
  あの握力で子供のころからシゴいておれば早漏になるであろう、という説と、あの握力で鍛えておるから遅漏であるはずだ、という説は拮抗して結論は出なかった。
  次のテーマは、平井和正の「ウルフガイ・シリーズ」の狼人間・犬神明だった。犬神明は強い。満月の晩に最強になり、全身をめった斬りにされた傷がふさがり、切断された腕まで生えてくるのである。
  すると、犬神明が包茎手術をした場合、満月の晩には、包皮が戻ってしまうのか?
  受験勉強をしたくない、という執念は、どんな話題でもネタにしてしまうのであり、予定どおり、全員が浪人した。
  それにしても、エリックの謎、犬神明の謎、いまだに未解決だが、真相を知っている人はいないか。 

2016年8月23日(火)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.45
半村良「黄金伝説」

 

  冒険ものの王道は何か?
  大判小判ざっくざく、宝石金貨じゃらじゃらじゃらん。
  これに尽きます。
  スティブンソン「宝島」、デュマ「モンテ・クリスト伯」、ポー「黄金虫」、ハガート「ソロモン王の宝窟」、トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」、シュリーマン「古代への情熱」、柴田錬三郎「赤い影法師」、西村寿行「まぼろしの川」、それに「花咲か爺さん」に「桃太郎」。
  私は、黄金が好きである。それも多けりゃ多いほど好きである。本当はピラミッドの盗掘がしたかったのじゃが、間違えて編集者になってしまった。
  半村良も、黄金が大好きであった。
  証拠がある。
  半村良著作一覧である。
  「闇の中の黄金」「黄金奉行」「虚空王の秘宝」「長者伝説」などはタイトルからしてもろだが、「戦士の岬」では大量の埋蔵金を掘り出し、「妖星伝」では黄金で作った城を目指し、「平家伝説」でもお宝探し、「講談大久保長安」の長安は、そもそも徳川家康の黄金発掘担当大奉行だった。
  まだまだあろうが、これほど「黄金」好きを隠さぬ作家は珍しい。もしかしたら自分は嫌いだが、人間の「黄金」にたいするいささか歪んだ欲望を熟知していたのかもしれない。
  団体で黄金を発掘すると、たちまち仲間割れして、分け前を増やそうと殺し合いを始めるのが、小説や映画のパターンだからである。
  うーむ。やはり、ピラミッドは掘ってみたいなあ。

2016年8月22日(月)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.44
小松左京「エスパイ」

 

  日曜の夜8時は「真田丸」だ。
  これだけ豊臣秀吉の老醜ぶりをさらした大河ドラマを他に知らないが、それはともかく、別の感慨があるのだ。
  真田昌幸役が草刈正雄、本田忠勝役が藤岡弘、である。
  この二人、映画「エスパイ」で初共演をしている。藤岡弘は「宇宙怪獣ギララ」でせりふのない役をやったあと、「日本沈没」でブレークをしていた。草刈正雄は、これ以後角川映画の「復活の日」「汚れた英雄」などで主演し、出世の階段を登っていく。
  しかし、この映画が感慨深いのは、この二人の「エスパイ」の上司を加山雄三が演じたことである。
  東宝の怪獣映画を見に行くたびに、その抱き合わせで「若大将」シリーズをやっていた。子供の私のお目当ては、ゴジラでありモスラでありキングギドラであったから、星由里子と定番のラブロマンを歌いながらこなしてしまう加山雄三は初めは目障り以外の何者でもなかったのだが、しょっちゅう見ていれば情も移る。
  若大将は大学生であり、加山雄三も30歳を過ぎるとやっと就職するのだが、また星由里子が出てきて、「久しぶり」ではなく「ぼかぁ田沼です。はじめまして」などと言うのに反応に困ったものである。
  その加山雄三が「エスパイ」で管理職になった。
  それから40年、草刈、藤岡の両青年が70歳近くなって大河で存在感を発揮している。
  長生きはするものだ、とつくづく思う。

2016年7月14日(木)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.43
子母沢寛「座頭市物語」

 

  北方謙三氏がキューバに行くとモテるそうである。ラテン美女が整理券を手にして列を作り、競って抱きついてきてキスをするそうな。話半分としてもたたごとではない。
  なぜそういうことになってしまったかというと、キューバで一番人気の外国映画が「座頭市」シリーズであって、北方氏は勝新太郎に顔が酷似しておる、という理由らしい。
  ミャンマーの一番人気の日本人俳優はソニー千葉だった。柳生十兵衛からカラテ・アクションまで繰り返し上映されている。だからキューバでもそういうこともあるかもしらん。
  ともあれ、北方氏に鈴なりになってぶら下がったラテン美女たちは、「イチ、イチ」と囁きながら、次の段階の整理券を奪い合うそうだ。
  さて、小説の映画化というのは、私に言わせれば「物語のリメイク」の一種である。原作に忠実に、などというのは、原作を読みこんだ読者が見るとあまり面白くない。
  「座頭市」は勝新太郎で山ほど作られたあとに、ビートたけし版だの綾瀬はるか版だのとさんざん作られ、おそらくこれからも作られることだろう。
  その原作は、子母沢寛の20枚程度の「こんな博徒がいたもんね」式のごく短い「座頭市物語」である。その短編をこの第18巻に収録させていただいたわけであるが、勝新太郎の「座頭市」は、まったく原作に忠実ではない。
  ところが、ウケてしまうと恐ろしいことになり、キューバから綾瀬はるかまで、時空を越えて物語は生き続けてしまうのである。
  そういう運命なのかどうかは、私の知るところではない。

2016年7月13日(水)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.42
馳星周「不夜城」

 

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  なんなら。
  なに? なになに。わしに本の感想ば話せじゃと。ほーかほーか、長生きはするもんじゃのう。で、何の本じゃい。ふん。馳ちゅう人の極道本かいのう。こげな極道本は別荘の図書室にはなかけんの、じゃがわしも別荘は暇じゃきに本ばよく読んじょったがの、カタギになっちからは、本ちゅうもんはちゃんと万引いて読むことにしとるけん、太か気持ちでいんないや。なに。前置きが長い? こりゃあおどれ、この腐れ外道が。牛の糞にも段々があるんじゃい。
  それにしても、しょもないもんが上に立つと若いもんが苦労すっとは、広島も新宿も同じこっちゃのう。けちな親がの、あいつのタマば殺っちくりと言われて、やじゃけん黙っちょると、いきなりほーかほーか殺っちくりるかと涙ながらに手え握られて、しょもなしにチャカ持って、恨みもない者を殺ったもんの、そのあとはなしのつぶてじゃ。
  任侠道? そげなもんはなかもん。わしかて朝起きて酒なんば飲んじょると極道ちゅうもんがつくづく嫌になるこつがあるけんど、わしごたるもんを神輿ごたるに担いでくれる若いもんに囲まれちょると忘れてしまうんじゃ。神輿にゃあ足はなかけん、ひとりで歩けるわけもないしのう。
  なに? わしの広島弁が変じゃと? そら、映画屋のせいじゃ。こりくさって呉の方言を教わったけんのう。
  で、なんの話じゃったっけ。おう。馳ちゅう人の本じゃったの。うん。極道戦争も、ぐろーばるになったのう、ほんま。

2016年7月12日(火)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.41
清水義範「極道温泉」

 

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  キメぜりふ、というものがある。
  夏目雅子「なめたらあかんぜよ」から米倉涼子「わたし、失敗しないので」まで、キメぜりふが成功すると、ヒットにつながる。
  古くは、「明日は明日の風が吹くのだ」なんてのもあった。ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラの「風とともに去りぬ」のラストのセリフである。ちなみに、原作でも Tomorrow is Another day.である。 
  さて、この「冒険の森へ」では、長編、短編以外の短い作品のうち、星新一作品のみをショートショートと呼び、他のほとんどをショートストーリーと呼んでいる。
  そして、川端康成と吉行淳之介の作品だけを掌編と呼び、それ以外をコント、と呼ぶことした。
  コント、とはフランス語で「小噺」と訳されている。ロシアではアネクドートと言われ、その代表的な書き手は、あのアントン・チェーホフである。
  この「冒険の森へ」で、コントを選ぶにあたっての最大の基準は何か、というと、それがキメぜりふの有無である、とぐるりと回って冒頭に戻ってくるのである。
  「第19巻 孤絶せし者」に筒井康隆「画家たちの喧嘩」がなぜ入るのか、と言われると「画家たち」の世界が狭いから、というタテマエ回答以前に「ムンクあるか」という一言に私がシビれてしまった、という本音があるのだ。
  この清水コントの「ビーフじゃあきい」も同様である。

2016年6月23日(木)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.40
船戸与一「夜のオデッセイア」

 

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  船戸与一作品では、主人公、主要人物の死亡率が異常に高い。
  なぜか、と船戸さんに尋ねたことがある。「それはな、人間、長生きすると、腐敗したり変節したり裏切ったりとろくなことはせんからじゃ。わしゃあ、さんざんそういうのを見てきたからな。生かしておくと、小説が終ったあとのそいつらの人生に責任を持てん」
  ごもっとも。
  仮に、腐敗も変節も裏切りもしないとしても、老いによる劣化は避けがたい。
  独裁者というと悪い奴ばかり、という印象があるが、名君も多い。たとえば始皇帝、ルイ14世、清の康熙帝、豊臣秀吉。
  ところが、彼らは老いによって劣化してしまうのである。独裁者の習性として後継者を育てるのに熱心ではない。老化による変な命令に諫言するものがいないのである。
  人間の肉体の成分のほとんどは水だと言われている。水は、高きから低きに流れ落ちる。だとすれば、船戸説は正しい。
  しかし、何事にも例外がある。その例外を私はひとりだけ知っている。
  船戸与一本人である。
  癌告知を受けても泰然。余命1年と言われながら、ライフワーク「満州国演義」全9巻を6年かけて脱稿して、腐敗も変節も裏切りも劣化もせずに、大笑しながら逝った。
  ここに収録した「夜のオデッセイア」は、船戸ワールドを前中後と分けると、前期を代表する傑作である。
  再読するに、船戸与一の哄笑が、行間から聞こえてくるようだ。

2016年6月22日(水)

「冒険の森へ」編集者の私的解説 vol.39
阿刀田高「笑顔でギャンブルを」

 

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  1969年、アポロ11号が月面着陸をした。私が高校2年の夏だった。葉山の友人の別荘で、48時間ぶっつづけの麻雀の最中に着陸しおったのである。
  当然、麻雀は中断、全員でテレビを凝視した。21世紀まで31年もある。誰もが世紀が変われば、火星はともかく月世界に一般人も行ける時代になることを疑わなかった。そのゼニさえあればの話だが。
  ポオの書いたハンス・プファルは風船を集めて、ヴェルヌは有人砲弾を打ち上げて、ドリトル先生はジャマロ・バンブルリリイという巨大蛾の背に乗ってそれぞれ月へ行った。
  そういう姑息な上に危険な手段ではなく、合法的かつ快適に月に行けるのである。
  麻雀高校生4人は、21世紀までにカネをゲットしようと誓いあったものであった。
  ところが、なんとしたことか、月旅行はまったく進展しないままもう2016年なかばである。
「カプリコン1」という映画のように、実は行かなかったのか? あるいは半村良「産霊山秘録」のように月面で忍者の死体を見て、やる気をなくしたのだろうか? アメリカは「世界の警察」などと自称して紛争地を世界中に作り出すことに熱心で、月世界に回す予算が無くなったのだろうか?
  ともあれ、月をはじめとする宇宙開発がせっせと進んだのは、小説や映画の物語だけであって、現実はそうではなかったのである。
  もっとも、私は月ツァーに行くゼニを所有することに失敗したわけで、いまさら実現してもらっても困るのだが。
  この阿刀田短編、月など当たり前の時代の火星着陸のショートストーリーである。
  こういう時代が、確かにあったのである。